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【第2章|モラハラの実態と心の揺れ】子どもがくれた、無償の愛だけが救いだった

目次

—— 疲れ果てた私を、ただ見て、ただ抱きしめてくれた存在

あの頃の私は、心がすり減る音を聞きながら毎日を過ごしていた。

頑張っても「当たり前」だと言われ、

疲れたと口に出せば「言い訳をするな」と返される。

感謝もねぎらいもなく、

ただ「努力が足りない」「なぜできないの」と責められるような日々だった。

誰のために、何のために生きているのか分からなくなっていた。

どこまで頑張れば、誰かに認めてもらえるのかも見えなかった。

大人の世界は、条件付きの愛ばかりだった

家族で過ごす時間も、苦しかった。

夫の希望に応えようとしても、足りなかった。

休みたくて「今日はしんどい」と言えば、

「座ってるだけでしょ?」と返された。

出かける先を考えなければ責められ、

ようやく見つけた場所も「いまいちだった」と評価される。

子どもが泣いていても、夫はお構いなしに先へ進む。

私の苦労も、抱えているものも、見えていなかった。

「どうしてこんなに報われないんだろう」

「私の価値って、何?」

そんな問いばかりが心に渦巻いていた。

でも、子どもだけは違った

どんなに疲れていても、

どんなに泣きそうな朝でも、

私の顔を見て、にこっと笑ってくれる小さな存在がいた。

泣きながら手を伸ばしてくれる。

抱きしめれば、安心して目を閉じる。

ただそばにいるだけで、笑ってくれる。

そのすべてが、

「ママがママでいるだけで、うれしいんだよ」

「ママのことが大好きだよ」

そう言ってくれているように思えた。

私の言葉を否定しない。

私の表情を疑わない。

私の沈黙を、無視しない。

何もいらない、何も求めない、

ただ“私そのもの”を必要としてくれる。

それが、どれほどの救いだったか。

無償の愛情は、確かにここにあった

あれほど傷ついても、

あれほど「消えてしまいたい」と思った夜もあったのに、

子どもの腕の中にいると、

「もう少し、生きてみよう」と思えた。

世の中には、

「母親ならそれくらいやって当然」

「子どもが可愛いなら我慢できるでしょ」と言う声がある。

でも、そうじゃない。

母親も、ひとりの人間だ。

痛みもあるし、限界もある。

誰かの「無償の愛」によって支えられなければ、

立っていることすら難しくなることだってある。

私を救ってくれたのは、

言葉ではなく、小さな手。

理解ではなく、まっすぐな瞳だった。

今の私が、あの頃の私に言えることがあるとしたら

「頑張ったね」よりも、

「ちゃんと見てるよ」って言ってあげたい。

そして、

「あなたが愛されたことは、本物だったよ」

そう伝えてあげたい。

子どもの無償の愛情が、

あの頃の私を、ぎりぎりのところでつなぎとめてくれていた。

それはきっと、今も私の中で、生きる力になっている。

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