――正論の奥にあったものを、私はようやく見ようとしている――
正しすぎる人に、私はずっと負けてきた
「それはこういう理由だよね?」
「それってつまりこういうことだよ?」
「君は感情的になってるだけじゃない?」
いつも“正しさ”の形をした言葉で封じられてきた。
あなたの話は筋が通っていて、何ひとつ間違っていないように聞こえた。
でも、私はなぜかずっと息苦しかった。
話し合いのようで、話し合いじゃなかった
こちらが何かを伝えようとすると、
必ず「でも」「それは違う」と返ってくる。
問いかけではなく、結論を突きつけられるような会話。
「それは君の捉え方の問題だよ」
「自分の感情に振り回されてない?」
そんな言葉の前では、私の気持ちはいつも小さくなっていった。
まるで、“わたし”よりも“論理”が優先される世界だった。
理論武装の裏にあるもの
最近になって、私はふと気づいた。
あなたのその理屈っぽさや、正論で固めた態度の裏には、
「自分が責められることへの強い恐れ」があるんじゃないかって。
自分を否定されることが怖いから、
先に“正しさ”を出して相手を黙らせる。
矛盾を突かれることが怖いから、話の構造を複雑にして煙に巻く。
それは、あなた自身を守るための“盾”だったのかもしれない。
向き合おうとした私に返ってきたのは「理屈」
私はずっと、あなたに気づいてほしかった。
ただ怒っていたわけじゃない。
ただ傷ついていたことを、わかってほしかっただけ。
でも返ってくるのはいつも「なぜそう思うか」の分析。
私の気持ちを受け止める前に、「論点がズレてる」と言われる。
その瞬間、私はまた「話すこと自体が間違ってたのかな」と思ってしまう。
でも、間違ってるのは私の気持ちじゃない。
ちゃんと伝えようとしていた“姿勢”を、私は否定したくない。
私は、あなたの「強がり」に傷ついてきた
本当は不安なんだよね。
自分が否定されるのが怖くてたまらないんだよね。
それを認めてしまったら崩れてしまいそうな自分を、
“完璧なロジック”で必死に支えていたんだと思う。
でも、私が傷ついたのはその“強がり”だった。
本音を見せてくれず、「正しさ」しか差し出してこないあなたに、
ずっと一人で向き合ってきたような寂しさがあった。
弱さを見せてくれるなら、まだ信じられる気がする
「それは正しくない」と切り捨てられる関係ではなく、
「そう感じたんだね」とまず受け取ってくれる関係がいい。
完璧じゃなくていい。
正しくあろうとしなくていい。
弱さを見せてくれる方が、私は安心できる。
私たちの関係を修復する鍵は、
“理論の上手さ”ではなく、“心の素直さ”だと、私は思ってる。
理論を手放した先に、きっと本当の会話がある
あなたが理屈を並べて私をねじ伏せようとするたび、
私はあなたの“本当の声”から遠ざかってしまう。
でも、あなたが少しでも不安を口にしたとき、
はじめて「あなたと向き合えるかもしれない」と思った。
私は今、あなたの理論ではなく、
その奥にある「人としての弱さ」と向き合っている。
きっとそこからしか、心は通い合わない。
そう信じたい。
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