――私の気持ちが理解されないのは、私の伝え方が悪いから?
――それとも、私の考え方が変なの?
ずっと、自分のせいだと思っていた。
最初から「どう思う?」なんて聞かれなかった
結婚当初から、夫はすべてを「自分の考え」で進めた。
家事のやり方、子育ての方針、義実家との付き合い方――
私の意見が尊重されることはほとんどなかった。
「今日は○○に行くから」
「この日は実家に行くよ」
「洗濯物の干し方、そうじゃないから」
まるで、私が“妻として当然こうすべき”という台本を
最初から夫の中に用意していたかのようだった。
私は、その台本通りに動かされていた。
嫌だと言えば、「おかしい」と否定される
「今月は義実家には行きたくない」と伝えれば、
「なんで? おかしいでしょ?」
「一人になりたい」と言えば、
「なんで? 家にいて何が大変なの?」
私の感じ方や希望は、すべて“否定の材料”にされた。
しかも、夫の言葉は容赦がなかった。
人格を責めるような言葉、理屈でねじ伏せるような言葉、
「わかってない」「だからダメなんだ」というような言い方で徹底的に押し込められた。
“意見”ではなく“正解”として押しつけられる
夫の言動の根底には、「自分が正しい」という強い確信があった。
それは“意見”ではなく、“当然のルール”として私にぶつけられた。
私が「でも私はこう思う」と言えば、
「考え方がズレてる」「そんなふうに思う人、他にいない」と即否定。
まるで、「間違っているのは私で、正すべき」かのような態度。
私は、ただ「違う考え方を持った一人の人間」として扱われたかった。
でも夫にとって私は、**“自分の世界の中で正しく動くべき存在”**だったのだと思う。
気づいたのは、心が壊れかけたとき
ある日ふと、「もう何を言ってもムダだ」と感じている自分に気づいた。
何を言っても跳ね返される。
何を感じても責められる。
“私の中身”がないことにされたような感覚。
心が折れるって、こういうことなんだと思っ
私は「私」として扱われていなかった
夫は、正しさや効率、常識を基準にして生きていた。
それは、彼の中では揺るがない「軸」だったのだと思う。
でもその軸は、私のものとは違っていた。
私が泣いても、「なんで泣くの?」
私が怒っても、「感情的になるな」
私が黙っても、「黙ってるってことは、理解したってことだよね」
私は、“人”としてではなく、“夫の望む反応をする存在”として見られていたのだと思う。
「話せばわかる」が、通じない理由
私はずっと、「ちゃんと話せば伝わる」と信じていた。
でも、夫の中には“私の言葉をそのまま受け止める器”がなかった。
彼のフィルターを通して、「正しいか間違っているか」「理にかなっているかどうか」で判断される。
だから、どんなに頑張って言葉を選んでも、
“その世界に合わない意見”は、結局切り捨てられる。
気づいた先にあったもの
それに気づいてから、私はようやく自分を責めるのをやめることができた。
「わかってもらえないのは、私が未熟だから」ではなかった。
「話し合いにならないのは、私の表現力が足りないから」でもなかった。
私は、ただ、別の世界で生きている人とぶつかっていただけだった。
しかも、彼は私の世界を見ようとはしていなかった。
自分の世界に私を当てはめ、「そうすることが愛情」だと信じていた。
終わりに|“当てはめ”から解放されて初めて見えたもの
本当の愛情って、きっと、
“相手を自分の枠に合わせようとしないこと”なんだと思う。
今の私は、もう自分を歪めなくていい。
泣いても、黙っても、笑っても――そのままの私でいていい。
そんなふうに、自分に許可を出せるようになったのは、
“当てはめられていたこと”に気づけたからだった。
コメント