――つらいとき、悲しいとき、そっとかけてもらいたかった言葉。
でもその言葉が、私には一度も向けられることがなかった。
「大丈夫?」――たった一言が、いつもなかった
具合が悪いとき、涙をこらえていたとき、
無理をして笑っていたとき。
私はいつも、心のどこかで彼の言葉を待っていました。
「大丈夫?」
「つらくない?」
そんな、ほんのひとことがあれば、どれだけ救われただろうと思います。
でも、彼の口からその言葉が出てきたことは、一度もありませんでした。
気づいていないのか、気づかないふりなのか
私がソファでうずくまっていても、
無言で洗い物をしていても、
彼は何も言わず、テレビを見たり、スマホを触ったりしていました。
最初は「鈍いだけなのかな」と思っていました。
でも、次第に違和感は大きくなっていきました。
もしかして、気づいていないんじゃない。
気づいても、興味がないのかもしれない。
私のしんどさに、関心すら持っていないのかもしれない。
そう思ったとき、胸がスッと冷たくなったのを覚えています。
共感ではなく、正論で返された日々
「体調が悪い」と言えば、
「もっと早く寝ればいいだろ」
「いつもだらだらしてるからじゃない?」
「つらい」と言えば、
「じゃあやめれば?」
「その程度でしんどいなんて甘えてるよ」
私が求めていたのは、アドバイスではなく、ただの共感でした。
たとえ解決できなくても、「そうだったんだね」と言ってもらえるだけで、気持ちは楽になったはずなのに。
「大丈夫?」と声をかけてほしい、と伝えたのに
ある日、私は勇気を出して言いました。
「大変なときに、『大丈夫?』って声をかけてもらえたら嬉しい」
「そういうひと言があるだけで、救われる気持ちになるから」
それに対して彼が返してきたのは、冷たい一言でした。
「なんでそんなこと言わなきゃいけないの?」
私は言葉を失いました。
お願いしたのは、贅沢でも、無理な要求でもないはずなのに。
心からの願いを、まるで面倒くさいわがままのように拒絶されたあの瞬間――
私の中で、何かが音を立てて崩れていったのを感じました。
本当の優しさって、なんだろう
「何かあったら言って」
「言ってくれなきゃわからない」
そう言う彼の言葉は、理屈としては正しいのかもしれません。
でも、言わなければならない時点で、もうしんどいのです。
言葉にするエネルギーすら残っていないときに、そっと「大丈夫?」と寄り添ってくれる人がいるかどうか。
それが、本当の優しさなのではないかと思います。
私は、誰かに寄り添える人でありたい
私は今でも、夫の「大丈夫?」という一言を聞いたことがありません。
その言葉を待っていた自分が、だんだんばかばかしくなって、もう期待するのをやめました。
でもそのかわり、私は子どもや友人、身近な人たちに「大丈夫?」と声をかけるようにしています。
あのときの自分が欲しかった言葉を、誰かに届けられる人でありたいと願っています。
違和感を無視しないで、ちゃんと向き合う
「大丈夫?」と言えない人に育てられたわけでも、
そんな人を選びたかったわけでもない。
けれど私は、今はっきりと気づいています。
あれは「ただの無関心」ではなく、
私を“ひとりにする態度”だったのだと。
自分の感覚を信じていい。
「おかしいな」と思ったことは、ちゃんと違和感だった。
そう言ってあげられるようになった今、私はようやく、心の中にあった孤独に名前をつけられた気がしています。
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