目次
―― わかってもらうことと、評価されることは、違う。
話すたびに、値踏みされているような気がした
「それは間違ってる」
「成長しないな」
気づけば、何を話しても「評価の対象」になっていた。
意見を言えば、「それは賢いか」「正しいか」と判断され、
選択すれば、「それは合理的かどうか」を問われる。
私は、いつからこんなにも“見られる側”になってしまったんだろう。
求めていたのは、評価じゃなく共感だった
私は別に、正しいことを言いたかったわけじゃない。
すごい人に思われたかったわけでもない。
ただ、「こう感じた」「こう思った」と言いたかっただけ。
でもそれを話すたびに、彼は「分析」し、「改善点」を指摘してくる。
「そう思った理由は?」「それって本当に必要?」
まるで、プレゼンをしているかのようだった。
だんだん「話すこと」そのものが怖くなっていった
間違ってると思われるかもしれない。
賛成されないかもしれない。
否定されるくらいなら、最初から言わない方が楽――
そんなふうに、私は少しずつ「話すこと」を手放していった。
⸻
わかってほしいだけなのに
私は「評価」されたいんじゃなくて、
「理解」してほしかっただけ。
たとえば、「しんどかった」と言えば
「どうして?」じゃなくて、「そうだったんだね」と返してほしかった。
そこに、“ジャッジ”はいらなかった。
⸻
人としてではなく、パフォーマンスで見られていた気がした
「良いか・悪いか」
「正しいか・間違っているか」
その二択の世界で、私はいつも試されているような感覚だった。
気づけば、「自分らしさ」よりも、「どう思われるか」を優先していた。
私はどこかで、人としてじゃなく、“能力”として見られていた気がする。
もう、頑張らなくていい場所がほしかった
本音を話しても、否定されない場所。
弱さを見せても、責められない関係。
そんな安心できる場所が、私はほしかった。
でもあの頃の私は、
ただ「ありのままの私」でいることすら、
許されていなかったのかもしれない。
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