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【第2章|モラハラの実態と心の揺れ】評価されることに疲れた私

しゃがみ込む女性
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―― わかってもらうことと、評価されることは、違う。

話すたびに、値踏みされているような気がした

「それは間違ってる」

「成長しないな」

気づけば、何を話しても「評価の対象」になっていた。

意見を言えば、「それは賢いか」「正しいか」と判断され、

選択すれば、「それは合理的かどうか」を問われる。

私は、いつからこんなにも“見られる側”になってしまったんだろう。

求めていたのは、評価じゃなく共感だった

私は別に、正しいことを言いたかったわけじゃない。

すごい人に思われたかったわけでもない。

ただ、「こう感じた」「こう思った」と言いたかっただけ。

でもそれを話すたびに、彼は「分析」し、「改善点」を指摘してくる。

「そう思った理由は?」「それって本当に必要?」

まるで、プレゼンをしているかのようだった。

だんだん「話すこと」そのものが怖くなっていった

間違ってると思われるかもしれない。

賛成されないかもしれない。

否定されるくらいなら、最初から言わない方が楽――

そんなふうに、私は少しずつ「話すこと」を手放していった。

わかってほしいだけなのに

私は「評価」されたいんじゃなくて、

「理解」してほしかっただけ。

たとえば、「しんどかった」と言えば

「どうして?」じゃなくて、「そうだったんだね」と返してほしかった。

そこに、“ジャッジ”はいらなかった。

人としてではなく、パフォーマンスで見られていた気がした

「良いか・悪いか」

「正しいか・間違っているか」

その二択の世界で、私はいつも試されているような感覚だった。

気づけば、「自分らしさ」よりも、「どう思われるか」を優先していた。

私はどこかで、人としてじゃなく、“能力”として見られていた気がする。

もう、頑張らなくていい場所がほしかった

本音を話しても、否定されない場所。

弱さを見せても、責められない関係。

そんな安心できる場所が、私はほしかった。

でもあの頃の私は、

ただ「ありのままの私」でいることすら、

許されていなかったのかもしれない。

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