――「もう、期待するのはやめよう」
その決意は、悲しみでも怒りでもなく、静かな諦めから生まれました。
私はずっと、夫に「気づいてほしい」「わかってほしい」と願ってきました。
私が我慢していること。傷ついていること。
それを言葉にするたび、「そんなつもりじゃない」「被害妄想だ」と返されてきた日々。
最初は、「言い方が悪かったのかもしれない」と自分を責めました。
それでも、何度も、何度も、丁寧に伝えようと努力してきました。
でも返ってくるのは、無関心か、反論か、あるいは皮肉。
「普通」が通じない苦しさ
「大丈夫?」って、どうして言ってくれないの?
「ありがとう」や「ごめんね」を、どうしてそんなに惜しむの?
子どもが熱を出して不安だった夜も、私が体調を崩した日も、
夫の口からは、一度も労りの言葉は出てきませんでした。
「言葉がきついから、やめてほしい」と伝えたこともあります。
でも返ってきたのは、「昔からこうだから直せない」という言葉。
「寂しい。少し話がしたい」と言えば、
「1人の時間が欲しい」と言って、夫はそのほとんどをゲームに費やしていました。
さらに、大事な話をしようとしても、「それはおかしい」「言葉が間違っている」と話の内容ではなく言葉尻を責められ、
「否定せずに、まずは最後まで聞いてほしい」と伝えても、
「その言い方が気になる」と言って直そうとせず、結局、話の本題にはたどり着けない。
聞いてほしいだけなのに、話をちゃんと聞いてくれない――
そんなやりとりに、何度も心が折れそうになりました。
私が変わるしかなかった
あるとき、ふと気づいたのです。
私が夫に「こうあってほしい」と思うたびに、私は傷ついている。
期待すればするほど、心がすり減っていく。
だから私は、期待するのをやめようと思いました。
「察してほしい」と願うのをやめる。
「きっと気づいてくれるはず」と信じるのをやめる。
「変わってくれるかも」と待つのをやめる。
それは、あきらめではなく、自分を守る選択でした。
期待を手放したら、少しだけ楽になった
もちろん、期待しないことは簡単じゃありません。
無意識に「こうしてくれるかも」と思ってしまう自分もいます。
でも、そんなときは自分に言い聞かせます。
「彼は変わらない。それが彼なんだ」と。
すると、不思議と心が落ち着いてきます。
過剰に期待して傷つくことも、振り回されることも少なくなりました。
そして今は、夫よりも、自分自身の気持ちに目を向けるようにしています。
何が嬉しいのか。何が嫌なのか。どんな言葉をかけられたら安心するのか。
誰かに求めるのではなく、自分の心に寄り添うこと。
それが、私にできる一番のケアだと気づきました。
最後に
「期待しない」と決めたことは、私にとって大きな一歩でした。
それは、夫を見捨てることでも、諦めることでもありません。
ただ、自分の心を守るために、必要な境界線でした。
もし、今、誰かにわかってほしくて苦しんでいる人がいたら。
その苦しみの中に、少しでも「自分のために生きる」選択があることを、思い出してほしいです。
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