「なぜか、いつもすっと入ってこなかった。」
夫の言葉を聞いていて、いつもどこか引っかかるような感覚がありました。
表面上はまっすぐな言葉に聞こえても、その裏に何かを隠しているような違和感。
ちょっとした矛盾、話の食い違い、急に変わる言い分。
まるで理論武装で自分の弱さや失敗を隠し、心を見せまいとしているようにも感じました。
そのやりとりの中で、私の中にあった「信じたい」という気持ちは、少しずつ削られていったのです。
「試されている」ような会話
質問に答えてくれないことも多く、何を考えているのかがわかりませんでした。
まるで、私がどう反応するのかを試すために話しているような感覚さえあり、会話のたびに神経を使いました。
私が聞きたいのは、理屈ではなく、気持ち。
でも、返ってくるのはいつも回りくどい説明。核心を避けたような言い方。
「つまりどういうこと?」と尋ねると、「なんでそんなこともわからないの?」と責められる。
……わからない私が悪いのかな。
……私の理解力が足りないのかな。
そんなふうに、だんだんと自分を責めるようになっていきました。
「私が間違ってるのかも」と思いはじめた日々
最初のうちは、夫に悪気があるとは思いませんでした。
けれど、繰り返されるあいまいな説明、かみ合わない会話、突然の言い換えや否定。
そのたびに私は、自分の記憶や感覚を疑うようになっていきました。
話し合いをしているつもりなのに、気づけばいつも私が「ごめん」と言っている。
私の言葉は、どうして届かないんだろう?
それとも、本当は「届かせるつもり」がないのかもしれない。
そう思い始めたとき、私の中で何かが決定的に崩れていきました。
信じられないのは、彼の言葉だけじゃなくなっていた
会話を重ねるたびに、私はどんどん疲れていきました。
自分の感情が置き去りにされていくような気がして、次第に「話すこと」そのものが怖くなっていったのです。
相手の言葉を疑いながらの会話――
それは、信頼の上には成り立ちません。
「信じたい」と思っていた。
でも実際には、「信じられない」自分をずっと責めていた。
けれど今なら、ようやくこう言えそうです。
信じられなかったのは、私のせいじゃなかった。
“わかり合えない会話”をがんばって続けていたのは、私のほうだった。
「信じる」って、努力じゃなかった
本当の信頼は、努力して築くものではないのかもしれません。
自然と伝わってくる安心感。
無理に理解しようとしなくても、すっと通じ合える言葉。
私はずっと、それを求めていました。
でも、求めるたびに傷ついてきた。
だから今は、「わからないのは私のせい」と思うことを、やめてみようと思っています。
信じたかった。ただ、わかり合いたかった。
その気持ちに、私はこれからも正直でいたいのです。
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