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【第1章|はじまりの違和感】「俺もきつかったよ」と言う夫に感じた、“想像力の欠如”

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義父との家族旅行に参加して

気疲れと緊張の時間

義父の誘いで、夫の家族と一緒に旅行へ行ったことがありました。

義父を中心とした空気に合わせるため、常に気を張り続ける時間。

沈黙にならないように場を繋ぎ、笑顔で振る舞いながら、内心ではずっと疲労感を抱えていました。

旅行が終わる頃には、心も体もぐったり。やっと終わった、とホッとしたのを覚えています。

気持ちを伝えたあとの、予想外の返事

共感ではなく、すり替えられた言葉

後日、そのときのしんどさを夫に伝えました。

「すごく疲れた。正直、きつかった」と。

けれど返ってきたのは、

「俺もきつかったよ」

という言葉。

その瞬間、私は静かに落胆しました。

私が伝えたかったのは「私自身の立場から感じたしんどさ」。

でも夫はそれを、「自分もそうだった」と、すぐに自分の感覚にすり替えてしまったのです。

繰り返される“想像力の欠如”

産後にも見られた同じ傾向

このようなすれ違いは、家族旅行に限ったことではありません。

たとえば産後。

心も体も万全ではない中で「つらい」と伝えれば、「仕事の方がきつい」と返される。

遠出を断れば、「後ろに座ってるだけでしょ」と返ってくる。

夫は、相手の立場を想像して受け止めるよりも、

いつも「自分基準」で判断し、言葉を返してくるように思います。

想像する力が、関係を支える

相手の気持ちをまるごと理解することは、簡単ではありません。

でも、立場を想像して「そうなんだね」と寄り添うことはできるはず。

夫には悪気がないのかもしれません。

けれど「想像しようとしない態度」が、確実に私の心を遠ざけていたことに、今なら気づけます。

言葉の意味だけでなく、その言葉が“誰の視点から発せられているか”——

それを大切にできる人と、安心して会話がしたいと、心から思います。

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